コラム

忠臣蔵 大石内蔵助の自筆書状

森下美術コラム 忠臣蔵 大石内蔵助の自筆書状

忠臣蔵、赤穂事件に関する大石内蔵助自筆の書状です。

 

元禄14(1701)11月、大石内蔵助は、314日に切腹した主君、浅野内匠頭の仇討ちがいまだ実行されず、経済的にも困窮するなど同志の間に亀裂が生じようとしている最中、江戸に下向し、急進派を一旦は取り鎮めるも、一周忌までに討入りをしようとする意見が多いために、翌元禄15(1702)215日、上方にいる同志たちで「山科会議」が開かれます。そこで大石は、内匠頭の三回忌までに浅野家再興ならびに吉良家の処分がない場合は、吉良上野介を、もし上野介が老齢により没した場合は、現当主の吉良義周を討つことを確認し、大石の元に一丸となることを約束します。

 

帰京後の元禄15(1702)115日に書かれた本書状では、江戸下向についての報告と家族、親族の近況を詳しく述べています。

 この時すでに大石の叔父である「小山源五左衛門」は事実上脱盟しており、大石が小山の安否を気遣っている様子が伺えますが、約半年後の閏八月の神文返しで、小山は正式に脱盟に至ります。

また、大石は家族に類が及ぶことを避けるため、妻の「りく」を離縁し、長男「主税」を除く家族を妻の実家である石束家に返します。

さらに、宛所の「妙酔院」に対し、慶事すなわち仇討ち成就の暁には、是非とも家族に伝えてやってほしいとお願いし、内蔵助の家族、親族への愛情が感じられる内容です。

 

この年の暮れ、元禄15(1702)1215日未明、大石ら赤穂浪士四十七士は、吉良邸に討入り吉良上野介を討取り、無事本懐を遂げます。

忠臣蔵 大石内蔵助の自筆書状|姫路 森下美術

大石内蔵助の忠臣蔵に関する自筆書状は大変貴重で、史料としても第一級の価値を有します。

また内匠頭正室「瑤泉院」を江戸て訪ねたことが追記されており、尚一層に趣を増しています。

新選組屯所

 姫路、山陽電鉄「亀山駅」の東隣に広大な寺域を構えるお寺があります。「御坊さん」「亀山御坊」の名前で親しまれている浄土真宗本願寺派の寺院、本徳寺です。周囲には真宗寺院が集まり寺町を形成しています。

 

この本徳寺の本堂は、もとは京都・西本願寺にあった建物を移築したもので、そこをかつて新選組が一時屯所としていました。

 本堂正面からはずれた一角の柱に新選組隊士が付けたといわれる刀痕があります。何ヶ所も柱の角を切り取った痕跡が残されています。

 

 新選組や幕末の志士たちのイメージから血気盛んな若者たちによる荒々しい仕業のようにも見えます。しかし、傷が一本の柱にのみ集中しているのを眺めていると、本当にそうだったのだろうか。もしかすると、本願寺の柱の欠片を「お守り」にするために切り取ったのではないかと思えてきます。

 切り取った柱の欠片とともに生きて無事に帰って来たいという、大きな時代の波に呑み込まれた若者たちの健気で熱い心が伝わってくるようです。

 

五流尊瀧院

大久保利通。西郷隆盛らとともに江戸幕府を倒し、明治維新を成し遂げ、新しい日本の礎を築いた功労者です。

明治新政府の成立後も、日本を国際的な一等国の仲間入りさせるため、旧弊旧習を変革し、近代化を進めていきました。それによって、旧友かつ盟友の西郷たち旧薩摩藩士たちと西南戦争で戦うことにもなりましたが、日本の発展のために私心を捨て尽力した結果、今の日本があるといっても過言ではないと思います。

しかし、西南戦争が終わって間がない明治11514日、旧士族たちによって紀尾井坂で暗殺されました。

没後、大久保家によって、修験道の本山である五流尊瀧院(ごりゅうそんりゅういん・岡山県倉敷市)という寺院に供養のため寄贈され、当時の姿をとどめたまま保存公開されています。

まさに紀尾井坂で襲撃された際に大久保本人が乗っていた馬車が、この寺院の静かな空間に現存しています。

 

当時から140年以上経っているために多少の劣化はあるものの、状態は大変良好で一見の価値があり、襲撃時の傷と思われる生々しい痕跡もあり感慨深いものがあります。

幕末維新好きの方々にもほとんど知られていません。

ご覧になりたい方は、是非事前のご予約の上、拝観されてみてはいかがでしょうか。

島津斉彬 自筆和歌短冊

森下美術コラム 島津斉彬 自筆和歌短冊

島津斉彬(1809-1858)は早くから外国に目を向け、諸外国と対等になるためにその先進技術を取り込み、洋式産業を興したり洋式兵備を図ることで、日本を富国強兵に導こうとした薩摩藩主です。

  

四海波静 

(四海 波 静か)

異国の舩のたよりも跡たえて

なミしつかなる四方の海はら

 (異国の船の便りも跡絶えて波静かなる四方の海原)

 

 本作は、その斉彬が藩主時代に書いたと思われる豪華な短冊です。

 1853年にペリーが艦隊を率いて開国を迫ったのを端緒に、西洋列強も日本との通商を要求し、国内の世情が沸騰惑乱しました。その時、孝明天皇が四海静謐などを主な畿内の寺社に祈願させました。この歌は斉彬が天皇の意を慮って詠んだ歌と思われます。しかし本作の歌とは裏腹に、斉彬が急死してから後は、欧米列強と不平等な修好通商条約を結ぶなど日本は開国に向けて突き進み、倒幕、明治維新を迎えることとなります。

斉彬直筆の筆使いと保存状態のすばらしさから、幕末動乱期を身近に感じることができる逸品です。

花押について

森下美術コラム 花押について

花押とは何でしょうか。

例えば有名人のサインのように思っていただけるといいのではないでしょうか。自分の名前を他に類似のない形に変換したものです。また私たちも署名する際に早く書くため省略した書体になりますが、それこそが花押の始まりだと思います。

歴史的に花押の起源は中国ですが、日本では平安時代の古文書に見られるのが最古だといわれています。

 なぜ花押が江戸時代終わりまで約1000年にわたり発展したかというと、まずは独自の署名により本人であることを立証することが求められたからです。その中で花押という署名が生まれてきました。しかしながら花押文書の発給対象や発給量が拡大してくると、やがて(その花押が誰のものかを知らなければ)花押のみでは本人を特定できなくなり、名前が併記されるようになりました。最初は当然名前、花押ともに本人が書いていましたが、武家社会になると右筆が名前を、本人は花押のみを書くことが多くなり、その形式がやがて定着していきました。

さらに江戸時代には花押自体も直筆ではなく花押形を彫った印章が代用されることが多く見られるようになっていきました。

豊臣秀吉や徳川将軍の発給文書では花押の方が朱印や黒印といった印章よりも礼が重く、厳密な礼式に則り用いられましたが、江戸から明治に時代が遷ると、明治6年の太政官布告によって花押の実質上の使用が制限され、印章の方が花押より有効になりました。

しかし、現在でも茶道の家元であったり、政治家が花押を自署の代わりとして使用しております。

 

 (明治675日太政官布告239号、明治10年に廃止)

「人民相互ノ諸証書面ニ爪印或ハ花押等ヲ相用ヒ候者間々有之候処当明治六年十月一日以後ノ証書ニハ必ス実印ヲ用ユ可シ若シ実印無之証書ハ裁判上証拠ニ不相立候条此旨可相心得事(後略)

島津久光と塩川文麟

森下美術コラム 島津久光と塩川文麟

幕末、薩摩藩の島津久光が上洛した際、家臣に京で一番の絵描きは誰かと尋ねられましたところ、家臣は中島来章が一番ですと答えました。すると久光は来章に頼みたいことがあるから薩摩藩邸に連れて来いと命じられました。

 当時の薩摩藩邸は二本松(現在の同志社大学)にあり、ここでは薩長同盟の密議が行われました。

 しかしながら、家臣が来章宅に伺いましても来章は会おうとはせず、すぐには承知しませんでした。そして三度にわたり薩摩藩の使者が来たとき、たまたま来章宅に塩川文麟が居合わせその話を耳にし、文麟は一計を案じ、自分が来章に成り代わって薩摩藩邸に行くからお前の紋付を貸せと言い、そのまま使者とともに薩摩藩邸に行きました。

 久光は来章が三顧の礼に応えて来たとの報を得て、大変喜び丁重にもてなしました。そして大楠公を描いてほしいと頼みました。やがて出来上がった大楠公の絵に久光は賛を書き入れ大満足し送り帰したそうです。 

 その後、島津久光や薩摩藩士たちとの出会いがきっかけかは分かりませんが、文麟は多くの勤王志士と親交を結んでいきます。

古筆家と極札

森下美術コラム 古筆家と極札

桃山時代の頃の知識階級といえば公家や寺院(高僧)でした。

 しかしその頃は商人や庶民がそういった上流階級に鑑定を依頼することは難しかったのです。

 そこで公家の烏丸光広から手解きを受けた平沢弥四郎が、関白豊臣秀次から「古筆」姓と「琴山」の金印を賜り、古筆了佐と名乗り鑑定を商売にしたのが古筆家の始まりです。

 そしてやがて代々の古筆家(のちに分家などが多くでる)の当主が鑑定した際に発行した細く小さい短冊状の鑑定札を極(きわめ)(または極め札)といいます。
 そしてその極め()が付いている=良いもの、本物といわれたことから「極め付き」という言葉が残り、現在でもいい意味で使われています。
 また逆に極め札が偽物の場合もあり、いわゆる鑑定書の偽造ですね。そのことを「札付き」といい、現在でも良い意味では使われないことがあります。(語源には諸説があります。)
 しかしながら、現在では極め札は鑑定書としての効力はなく、「極め札が付いている=良いもの、本物」ではなくなってしまっています。

  でも極め札が付いていることは百年以上または数百年と代々にわたって珍重されてきたものという証拠ですので、大切に作品と一緒にこれからも残していきたいものです。

武鑑

森下美術 武鑑

鑑というものをご存知ですか?

武鑑について、森鴎外は「徳川史を窮むるに闕くべからざる史料」といい、また徳富蘇峰は「武鑑ハ徳川時代ノ索引」「江戸幕府時代の一貫シタル目録」と述べています。

武鑑に記載されている内容には主に二つあります。

まずひとつに刊行当時の諸大名に関する詳細な情報です。

藩主の名前、禄高、官位、城内詰所、家紋(定紋・替紋)、領地、役職、系図、嫡男、正室、屋敷地、馬印、纏、参勤交代の時期、献上品、拝領品、主な家臣名等々が記されています。

そして次に幕府の役職、役人に関する情報です。

上は大老、老中、若年寄、大目付、各奉行など上級から御家人たちの勤める下級役人や能役者等に至るまで、役職ごとに家紋・禄高・父の名前などとともに役人の名前が記されています。

 武鑑には全国のすべての藩が網羅されており、その中には有名な藩主たちの名前が出てきます。例えば大岡忠相、水野忠邦、松平定信、井伊直弼、島津斉彬、徳川斉昭、松平容保などの諸大名や、遠山景元(金四郎)、長谷川宣以(平蔵)、勝安房守(海舟)、川路聖謨など旗本衆や、さらに狩野派、土佐派など有名絵師の名前を見つけることができます。

 ここで武鑑の簡単な歴史を見ていきます。

  まず武鑑の最も古いのは、「江戸の武家名鑑―武鑑と出版競争」(藤實久美子著)によると寛永20年(1643)刊の屋甚左衛門版だそうで、以後30年間は「御紋尽」という名称が多かったのが、「江戸鑑」という名称を経て、貞享2年(1685)の「本朝武鑑」以後、武鑑という名称が広く定着していったようです。

森下美術 武鑑

初期の頃は1冊本で、内容は大名に関する情報のみでしたが、徐々に記載情報の多種化に伴い、冊数、丁数も増加し、宝永5年(1708)の「一統武鑑」において初めて4冊本が出されました。やがて「大名」2冊・「本丸付役人」1冊・「西丸・御三卿付役人」1冊の合計4冊組の仕組みが一般化され、幕末まで続いていくことになります。

また4冊本が携帯用に1冊にまとめられた「略武鑑」というものもあり、4冊本には載っていない特典情報が載るなど、江戸土産としても大変人気があったそうです。

武鑑は誰が刊行したのでしょうか。

江戸幕府が当然作ったものと思われますが、実は江戸時代を通じて一貫して民間の版元を通じて刊行されました。

人気があったことで、版元同士が競い合い、その刊行される回数も徐々に増え、出世と左遷つまり知行の変動、人事異動や当主の代替わりなどの内容の改訂をいち早く反映させようと、やがては一年に数度も改訂されていったようです。

また既刊本を所有する顧客には改訂部分を差し替えるサービスまで行っていたそうです。

版元の出版競争について詳しくは「江戸の武家名鑑―武鑑と出版競争」藤實久美子著をご参照ください。

 ではなぜ武鑑が盛んに作られたのでしょうか?

まずは、多様で複雑な仕来たりや作法および、家格や役職による互いの関係性を、全ての大名、旗本やその家臣団はもちろんながら行列を構成する雇い中間にいたるまで周知徹底をしなければ大名同士、特に大名と旗本の紛争につながりかねず、時には改易に至るかもしれない為に、武鑑の情報から行列の相手が誰であるか、または自分より格上かどうかを判別する必要がありました。(戦国時代の名残により大名同士が犬猿の間柄である場合は、幕府は同席をさせなかったり、顔を合わさせない工夫や参勤時期を変えて同時期に江戸にいない工夫をしていました)

次に大名行列の見物が旅人や江戸の人々に人気があり、家紋や鎗袋等をもとに武鑑片手に調べ、「この御行列は姫路の酒井雅楽頭様だよ」などと話に花が咲いたことでしょう。

例えば、桜田門外の変の際には、襲撃側の水戸浪士たちは武鑑をその手に持ち、総登城日である33日、行列を組み江戸城を目指す大名や旗本衆を見物する風を装い、井伊家の行列を待っていたそうです。 

武鑑は見ているとそれだけで江戸時代という時代を直に感じさせてくれます。この武鑑と江戸切絵図があればタイムスリップできそうです。また武鑑に知っている名前を見つけるのも醍醐味です。

最後に武鑑は今なお人気があり、状態の良いものもたくさんあり多くの人を魅了しています。

  様々なコレクションが現存していますが、中でも軍医で小説家でもあった森鴎外による武鑑のコレクションは特に有名で、鴎外文庫の一部として今も東京大学に残っています。 

売立目録

仙台伊達家 売立目録

江戸から明治に時代が大きく変わるとともに、身分や階級も上を下へといった大きな変動が起こりました。特に武士階級の没落と商人の抬頭です。かつての禄高や領地がなくなり、経済的理由からかつての支配階級であった武士や大名の中には、それまで代々受け継いだ家宝や美術品を手放さざるを得ない家が出てきました。

 加賀前田家(明治2年)、姫路酒井家(明治4年)が行った入札が嚆矢といわれ、明治時代には東本願寺、鴻池家、平瀬露香、河村家(江戸十人衆)、下村家などが売立てを行ないました。 

仙台伊達家 売立目録

大正時代になると第一次世界大戦後の恐慌に伴い、旧摂関家である近衛家(大正7年)や九条家(大正11年)が、主な旧大名家では仙台伊達家(大正5年)、秋田佐竹家(大正6年)、水戸徳川家(大正7年)、淀稲葉家(大正7年)、備前岡山池田家(大正8年)、若狭小浜酒井家(大正12年)、加賀前田家(大正14年)が家宝の売立てを行ないました。

 そんな中、尾張徳川家も大正10年に行いましたが、美術館建設資金の準備が目的であり、それがために家宝の散逸を防ぐことができ、現在も徳川美術館に源氏物語絵巻をはじめとする重代の家宝が伝来しています。

 これら名家の売立てによって名品がたくさん売りに出されました。そしてそれらを買い求めたのが財閥や第一次世界大戦で巨万の富を得た財界人や成金たちでした。

そして昭和になり世界恐慌による昭和恐慌が引き金になり、大きな売立てが数多く行われました。

紀州徳川家(昭和8年)、阿波蜂須賀家(昭和8年)、松方公爵家(昭和3年)、松本雙軒庵(昭和8年)、関戸松下軒(昭和8年他)、藤田香雪斎(昭和9年他)など多くの旧大名家、華族、財閥、財界人などが時代の波に翻弄され蒐集した美術品を手放していきました。

売立ては東京をはじめ全国各地や朝鮮でも行われ、研究者によるとその数は約4,0005,000件以上に及ぶといわれています。その中の約2,500件の売立てが行われた回数を開催地域別・時代別に分類したのが下記の表です。

 

(表)売立入札会 開催地・時代別

 

東京

愛知

京都

大阪

石川

地方

不明

 

明治

30

0

32

17

2

6

5

92

大正

530

47

192

254

18

56

17

1,114

昭和戦前

512

163

164

248

33

71

37

1,228

不明

13

5

34

5

13

19

8

97

 

1,085

215

422

524

66

152

67

2,531

     (森下美術調べ)

 

売立てを行なう際には売立目録(目録、入札目録)が作成され、名家ともなれば装丁はとても豪華で、豊富な点数およびページ数の立派な目録となっております。中には原三渓のように売立目録を作成したが売立てが行われなかったという珍しいケースもありました。

これらは基本は白黒写真ですが、名品の場合はカラー写真で掲載される場合もあります。そして解説が付き、まるで一冊の美術書のようでもあります。 

仙台伊達家 売立目録

売立目録の内容からは、各家々の特色や、今は国宝や重要文化財に指定されている名品の来歴であったり、関東大震災や戦災で失われてしまったお宝の姿をうかがい知ることができます。

また値段の書込みや高値表や当時の新聞、美術雑誌等で落札値が分かる場合もあり、その当時の相場や人気を知る一助となります。

 目録の状態が良ければ、元箱、元袋、入場券、高値表などが付いているものがあります。

こうして売立目録は当時の入札カタログとしてだけでなく、美術品の来歴、旧蔵家についてのなどさまざまな情報や、名品にまつわる豊富なエピソードを今に伝えてくれています。

また出品された作品には出品番号札が箱に貼付されており、また作品名、落札値かつ落札した美術商の名が記された落札札が添付されている場合があります。これらはそれがどの売立てに付されたかが分かる貴重な資料となっております。

自らも数寄者として美術品を蒐集し「大正名器鑑」を著した高橋箒庵の「近世道具移動史」(昭和4年)は、明治から昭和初期までの世の中の流れに伴い、流転や興亡を繰り返した美術品、数寄者、美術商の活躍を名家の売立てを中心に描いた、当時の生の雰囲気を伝える名著ですのでご参考にしてください。

絵筆を持った武士

森下美術コラム 絵筆を持った武士

江戸時代、武士の嗜みは琴棋書画といわれます。そのことからも漢詩を詠み、絵を描く武士はいたと思われます。彼らは何故絵筆を持ち名を残したのか?(狩野派や土佐派や各藩のお抱え絵師のように職業絵師である武士については割愛します。)

公家や寺院、茶人たちと接点をもった武士たちは、様々な美意識の共有を行なったことが推測できます。

また町人文化が花開くにしたがって町人と武家の身分を越えた密接な交流が増えたこと、1731年に清から沈南蘋が来日するなど長崎を窓口に新たな文化との接触に関心を寄せる武士が増えたこと、さらには武士は幼少時より孔子や孟子、孫子など諸子百家の書に親しみ漢学や儒学の素養があったことが中国文化への憧憬につながった、武士が絵筆を持つ主な要因だと思われます。

江戸中期は中国では清の乾隆帝の治世であり、世情も安定し文化が爛熟した時代でもあり多くの中国文物が日本にやってきました。そして大名らはそれらを蒐集しはじめるようになり、鑑賞や模写を通して中国絵画の影響を受けていった。

さらには中国の文人や士大夫に憧れ、日本独自の文人画家を目指す武士も現れるようになりました。

またこれとは別に牧野貞幹などのように自らの趣味や博物学や生物学など学問を追及する過程で絵を描いた者も多くいました。

大方、武士の絵画は余技であるが、下記のように余技を越えて画名が広く知られた者も大勢おり、中には蠣崎波響のように藩の為に、または渡辺崋山のように生活の為に絵を描いた武士もいました。(崋山の絵には他の要素も多く含まれているが)

彼らの絵画は職業絵師も顔負けなほど練達しており、大名や高位の武士の絵画にはふんだんに高価な絵具や画材が使用されており、今なおその彩りは当時の輝きを放っております。

 

〈大名〉

酒井宗雅(播磨姫路藩主)・佐竹曙山(出羽秋田藩主)・戸田忠翰(下野宇都宮藩主)・成瀬正典(尾張藩付家老)・牧野貞幹(常陸笠間藩主)・増山雪斎(伊勢長島藩主)・松平定信(陸奥白河藩主)・松平乗完(三河西尾藩主)・柳沢伊信(大和郡山藩主)

〈家老〉

蠣崎波響(松前藩家老)・佐竹義躬(秋田藩士)・柳沢里恭(大和郡山藩家老)・渡辺華山(三河田原藩家老)

〈幕臣〉

飯室昌栩・石川大浪・岩崎灌園・大岡雲峰・大久保忠恒・加藤文麗・栗本丹洲・建部秀行・鳥文斎栄之・椿椿山・董九如・水野盧朝・毛利梅園(以上旗本)・太田蜀山人・礫川一指(以上御家人)

〈その他〉 

浦上玉堂(鴨方藩士)・大窪昌章(尾張藩士)・岡岷山(広島藩士)・小田野直武(秋田藩士)・酒井抱一(姫路藩主酒井宗雅の弟)・佐久間洞巌(仙台藩士)・島田元旦(鳥取藩士)・鈴木其一(姫路藩士)・立原杏所(水戸藩士)・建部凌岱(弘前藩家老の子)・田能村竹田(岡藩士)・長澤蘆雪(淀藩士)・藤田錦江(庄内藩士)・金子金陵(旗本の家臣)・川村清雄(旗本の子)・遠坂文雍(田安家臣)


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